2025.08-15
「全ては結果を残すため」法政大学ボート部・石井敦貴さんが大学生活の全てを捧げる理由
ROWING
午前4時。夜の帳がまだ空を覆う頃、彼らの一日は静かに、しかし確かに始まる。
水面を切り裂くオールの音が、闇を震わせる。その一掻きごとに、未来の自分が形づくられていく。
法政大学ボート部3年、石井敦貴さん。
彼の日常は、想像をはるかに超えてストイックだ。高校からボート競技に身を投じ、長期休暇の記憶はない。友人が海外旅行やサークル活動に沸く中、彼は練習と寮生活に全てを注ぐ。なぜ、ここまで過酷な道を選び続けるのか。その答えは、ボートを通して出会った“揺るがぬ信念”にある。


彼とボートの出会いは、中学3年の秋。担任の一言が、人生の舵を大きく切った。
「ボートは高校から始める選手が多い。みんな同じスタートラインだから、日本一になれる可能性があるぞ。」
それまで彼は、砲丸投げをする陸上部員であり、勉強中心の学生だった。しかし「日本一」という響きと、「同じスタートライン」という言葉が、眠っていた挑戦心を呼び覚ます。
「やったことのないことに挑戦したい。全員同じスタートなら、本気でやれば勝てるかもしれない。」
その衝動が、彼をボートの名門・関西高校へと導いた。待っていたのは想像を超える苛酷な日々。午前4時半起床、朝練、授業、午後練、そして夜の自主練。夏も冬も関係なく、一年中漕ぎ続ける生活だ。
だが彼は、逃げなかった。
「努力が数字や結果として返ってくる。その瞬間、この競技は自分に向いていると感じました」
高校1年で主力クルー入り。3年時にはインターハイ優勝。あの日の教師の言葉は、決して夢物語ではなかった。


順風満帆に見えた競技人生。しかし、最大の試練は日本一の栄光を手にした直後に訪れる。
高校最後の大会となる国体を3週間後に控えたある日、チーム内で新型コロナウイルスが蔓延した。彼自身も罹患し、ボート競技の生命線である心肺機能と筋力は、無情にもリセットされてしまった。
「ボートは一度体調を崩すと、元に戻すのにものすごく時間がかかるんです。国体まで時間がない中、合宿で他チームに全く歯が立たず、監督からも厳しく言われて…。本当にしんどかった」
なかなか戻らない自分のパフォーマンスに逆らうように、大会は迫ってくる。その焦りと悔しさが、彼を夜中のトレーニングルームに向かわせた。寮に帰った後もエルゴメーターを漕ぎ続ける日々。壮絶な3週間だった。
何が、あの時の彼の心を支えたのか。
「支えてくれる人の存在です。家族、監督、そしてチームメイト。辛い時、いつも誰かがそばにいてくれた。だから、自分は結果や頑張る姿で恩返しをするしかない。その気持ちが僕の原動力です」
この経験は、彼の競技人生観を根底から変えた。自分の力は、自分だけのものではない。応援してくれる人々への感謝こそが、苦しい練習を乗り越え、自分をもう一段階上のレベルへと引き上げるエネルギーになる。そのことを、身をもって知った。


その後、大学ボート部の中でも強豪の1つである法政大学に進学。高校時代との最も大きな違いは、「学生主体」という環境だった。
自分たちで練習の意図を考え、コミュニケーションを取りながらチームを作り上げていく。特に5人乗りのクルーでは、個々の感覚の違いを一つに統合する高度な技術が求められる。
「5人乗りの船では、それぞれまったく違う感覚を持っています。自分が『今のはうまくいった』と思っていても、他の選手は全く違うことを感じている。だからこそ、自分の気持ちを正直にさらけ出し、全員の意見を聞いた上で、一つのイメージを統一することが絶対に必要なんです」
特に彼が意識しているのは、ポジティブな声かけだ。
「悪い点を指摘するんじゃなくて、『今の良かったね、じゃあ次はここをもっと良くしていこう』と前向きな言葉をかけるようにしています。どんなに苦しい練習でも、いかに楽しくできるか。それが一番大事だと思っています」
彼自身が分析する自分の強みは「モチベーションの波がないこと」。その安定した精神力と前向きな姿勢は、自然とチームに伝播していく。「俺も頑張るから、お前らも頑張ろうぜ」。背中で語るリーダーシップが、クルーの結束力を高めていく。
「みんなの頑張っている姿が、僕の一番の支えです」
個の力を極限まで高め、それをチームの力として調和させる。そのために不可欠なコミュニケーションを、彼は誰よりも大切にしている。


大一番のレース前、彼には必ず行うルーティンがある。それは、自分の身体を優しく「さする」ことだ。
「足や腕、身体の部位を自分で触ることで、意識が身体に向かい、自然とリラックスできます。何も考えず、無心になる。『頑張ろう』と意気込む方が、逆に力んでパフォーマンスが出ないんです」
最高のパフォーマンスは、最高の準備から生まれる。心と身体をニュートラルな状態に整える。それが、彼なりの『準備』の流儀だ。
そして法政大学ボート部には、ユニークな伝統が存在する。試合前には必ずパンとうどんを食べる、通称「パンう」。すぐにエネルギーに変わる炭水化物を摂取するための科学的根拠と、験担ぎの意味を併せ持つ。部員にとっては楽しみなイベントでもある。これもまた、チーム全体で勝利への準備を整える、大切な儀式なのだ。


大学卒業後は、競技生活に区切りをつけることを決めているという。残された時間は、約2年。その先にあるのは、どのような未来か。
「大学に入ってからの最高成績は全国4位。だから、メダルを獲って、今まで支えてくれたマネージャーや皆に恩返しがしたいです」
遊ぶ時間を犠牲にし、過酷な日々に身を投じる意味を、彼はこう語る。
「周りの大学生が羨ましいと思う時も、もちろんあります。でも、一つの目標に向かって努力し続ける力は、普通の大学生活では絶対に味わえない経験。この経験は、将来社会に出た時の自分への投資だと思っています。卒業する時の満足感は、絶対に僕らの方があるはずです」
ボート競技を通じて培った、自分で考えて動く力、コミュニケーション能力、協調性、そして忍耐力。それら全てが、彼の未来を形作る礎となる。彼の目標は、ボート選手としてだけでなく、一人の人間として「みんなを元気に幸せにしていけるような、太陽みたいな存在になること」だ。
心拍数は、時に250を超えるという。全身の筋肉が悲鳴を上げ、意識が遠のくほどの極限状態。それでも彼らは、仲間を信じ、支えてくれる人々を想い、ただひたすらにゴールを目指す。
