支えてくれた家族のために、プロになって恩返ししたい

山内ジャヘル琉人選手が挑む壁

2020年ウィンターカップ男子決勝。仙台明成の山内ジャヘル琉人選手は、この試合に人生を賭けていた。 試合時間残り4分、一時17点ビハインドまで開いた京都東山との差は、5点差にまでつまっていた。 山内選手が3Pラインのはるか手前でパスを受け取る。 そして、シュートを放った―。

出身はカリフォルニア州サンディエゴ。日本人の母とアメリカ人の父の間に生まれた。 1歳の時に母の故郷である沖縄に移住すると、その後3歳で父母は離婚。 山内選手は母の実家で育った。バスケットボールとの出会いは、小学1年。 バスケ好きの叔父にみせてもらったNBAのビデオがきっかけだ。

「どうしてもバスケがやりたくて。本当は3年生からの約束でしたけど、お母さんに頼み込んで、2年の冬にチームに入りました」

そこからは本人曰く“本当にバスケ馬鹿”。 どこへ遊びに行くにもバスケットボールを持ち歩き、チーム練習が終わった後も近くの公園で叔父と一緒にドリブルやシュートの練習にあけくれた。

「もちろん、バスケが上手くなりたい、プロになりたいというのが一番の理由ですが、当時の僕にとってはストレス発散というのもあったと思います」

地元には、ミックスの子供は自分と弟以外いなかった。 やはり肌の色の違いで、からかわれることもあったという。 それが原因で少し内気な性格になったが、人目を気にせず自分を思いきり表現できるのがバスケだった。

しかし、小中学校時代、勝ちたいと逸る気持ちとは裏腹に、チームはなかなか結果を出せない。 中学の県大会でも常に一回戦負け。山内選手も膝の成長痛が重なったこともあって県選抜に選ばれなかった。 だから、全国的に無名で選抜実績すらなく、加えて当時身長も180センチなかった山内選手が、バスケの名門・仙台明成高校に入れたのは異例のことだったろう。

「15歳の時、バスケに人生を賭けようと覚悟を決めました。自分が伸びる最高の環境を考えた時、明成しかないと思いました」

中学3年の秋、内気な少年は勇気を振り絞る。明成の佐藤監督に手紙に書いて、自分の特長とバスケへの情熱を伝え、必ずチームを助ける選手になるとアピールした。 仙台へ練習体験に呼ばれ、実力不足で「もう来なくていいよ」と言われた際にも、諦めなかった。翌日も体育館に向かい、頭を下げて練習参加を懇願した。

そうして、こじ開けた名門の門。しかし、入部後も練習についていくので精一杯の日々が続いた。 この苦しい時期、耐えきれたのはゆずれない思いがあったからだという。 奨学生として高校生活にかかる費用を一部免除されてはいたが、実家にかかる負担は大きかった。 「プロになって、ずっと苦労をかけている母に楽をさせたい」その思いが折れそうになる心を奮い立たせ続けた。

やがて背も伸び、貪欲に吸収した技術が身につきはじめた頃、山内選手はいつしか手紙で宣言したチームに欠かせない選手にまで成長する。そして、3年生で迎えたウィンターカップ。コロナでインターハイが中止になったこの年、最初で最後の全国大会。山内選手は大会ベスト5に選ばれる活躍をみせ、悲願の高校日本一を成し遂げた。

「全国制覇したことで、色んなことがスッキリしました」

自分がプロになれるのかという不安。母に苦労をかけている罪悪感。周囲と違うコンプレックス。 そういった感情が自分の未来にあるまぶしい光にかき消された。

山内選手は現在、大東文化大学に進学し、インカレ制覇を目指している。
まだまだプロへの道のりは険しく長い。
しかし、持ち前のHUMBLE&HUNGRY(謙虚さと貪欲さ)で、
どんな遠い夢でも、いつか射止めるのだろう。
あの日放った、3Pシュートのように。

text by Taku Tsuboi(sportswriter)
photographs by Yasushi Mori